民医連のこれまでとこれから。 | 山梨民医連

民医連のこれまでと
これから。

甲府診療所職員

設立から
草創期の活動

はたらく人の医療機関

一九五五年六月一日、甲府駅のほど近くに小さな診療所が誕生しました。敗戦から十年―戦争の余韻が残り、まだ国民皆保険が整備されていない時代、自分たちの健康は自分たちで守ろうという住民の思いと「健康保険のあるなしにかかわらず、どんな人でもすべて保険の料金で気やすく(設立趣意書)」受診できるような医療機関をつくろうという職員の思いが固く結びつき開設されました。当時の新聞が「ニコヨン*病院、汗の十円玉で建つ(山梨時事新聞)」と報道したとおり約百人から資金が寄せられ、「住民立」の医療機関がスタートしました。

(*かつて日雇い労働者を意味して用いられた俗語。当時の定額日給が二四〇円だったことに由来する)

地域からの要求にこたえて

たった三人の職員、民家を改装した小さな診療所は「甲府診療所」と名付けられました。小さな診療所に地域を代表するような名前を付けた当時の職員の夢の大きさ―それを具現化するように、朝六時から夜十二時まで玄関を開け放ち、入院ベッドがなくても「患家は病室である」と往診を行うなど奮闘しました。今では当たり前になっていますが、酸素ボンベや点滴器具を患者さんの家に持ち込んでも当時は保険診療と認められていませんでした。それまで誰もやっていなかったことに挑戦し、患者さんが在宅で治療を受けられるようになった実績はやがて制度として整備され現在に至っています。医療そのものの拡充と人々の健康を求める思いと一体となって、働く仲間も増え、病院へと発展していきました。また、医療へのアクセスが整備されていない地域に病院、診療所を設立していきました。やがて医療だけではなく薬局や介護施設も整備され、山梨民医連をかたちづくっていきました。

友の会

地域のひとびとと共に

そのような医療活動を支えてくれた住民のみなさんは扶助組織として「共立互助会」を設立し、のちに山梨健康友の会へと発展しました。この健康友の会は医療・介護活動から経営にいたるすべての活動を相談しながら一緒に進める組織であり、私たちのかけがえのないパートナーとなっています。

倒産事件を
乗り越えて

史上最大の倒産

一九八三年四月五日、山梨民医連の中心的な法人である山梨勤労者医療協会は、負債総額二三〇億円を抱えて倒産。「病院では史上最大の倒産」と報じられました。 「よい医療とは赤字になるもの。赤字は他の事業で稼いで穴埋めする」という誤った医療観・経営観にもとづいて医療以外の事業に資金を投入し、その資金が回収できなくなったことが原因でした。

男たちの乱入を阻止する甲府共立病院の職員たち

債権を持っていたのは互助会員といわれる地域の支援者の方々です。倒産が明るみに出ると「お金を返してほしい」と債権者が甲府共立病院に殺到。職員は「医療さえ続けられれば必ずお返しできます」と説明し、ひたすら謝って帰ってもらうことしかできませんでした。債権を巡って暴力団が病院に押し掛けることもありました。

患者会による共立病院の閉鎖を阻止するための大会

再建のあゆみ

山梨勤医協は「和議」による再建を選択。一軒、一軒職員が訪問して説明を続けました。患者さん目線の温かい医療を行う勤医協を「つぶしちゃいけん!」という声が多数に。病院存続を求める患者集会には八〇〇人が集まりました。翌年五月、債権者の九九・九パーセントの同意で和議が成立します。全国の民医連の支援も受け、計画より一年早く完済することができました。

住み慣れたまちで
いつまでも

貧困と格差の拡大のなかで

設立からたくさんの困難がありましたが、地域の方々に支えられ、現在の山梨民医連があります。高齢化が進み、病院で患者さんが来るのを待っているだけでは、そして医療機関だけでは地域の人々の思いにこたえることは困難です。

また、貧困・格差も大きな問題となってきており「保険料が支払えず保険証が手元にない」「負担が心配で医療や介護サービスを利用できない」など医療・介護・福祉を受ける権利が保障されない人々がたくさん出てきています。

もともと医療・介護・福祉は国家予算を圧迫しているなどという言説のもと、ギリギリの財政状態での運営を強いられており、ひとたび新興感染症などがまん延すれば、一気に問題が顕在化するような環境になっています。住み慣れたまちでいつまでも健康で自分らしく生きていきたい―そんな当たり前の思いを実現することがとても難しくなってきています。

無差別・平等の医療と福祉を

このような中で差額ベッド代をいただかず、無料低額診療事業などに取り組んできました。歴史を振り返れば、私たちはどんな時も地域の人々と手を携え、人々の求めるものや思いをかたちにしてきました。かつて高齢者の医療費は無料でしたが、全国に先駆けて無料化をかちとったのは甲府市で、その後県下自治体に広がり、県の制度となり、最終的には国の制度となりました。

今では当たり前になっている訪問看護、在宅酸素なども保険適用になっていませんでしたが、実践によって制度化していった歴史も持っています。日本国憲法では健康で文化的に、自分らしく生きる権利を保障していますが、具体的なかたちにしていくには多くの挑戦が必要でした。

それらは人々と時代によって鍛えられ、磨かれてきたものです。わたしたちは引き続き、人々と共に無差別・平等の医療と福祉の実現を目指していきます。

ラジオ出演して現場の困難を訴える